50代から英語を再開するまでのリアルな軌跡|ワーホリ・海外生活・40代のブランクを経て気づいたこと - 海外体験やオンライン英会話の記録をつづる

50代から英語を再開するまでのリアルな軌跡|ワーホリ・海外生活・40代のブランクを経て気づいたこと

50代で英語学習を再開した女性の人生ストーリーをイメージした写真

50代になった今、もう一度「英語をやりたい」と思えた自分がいる。
でも、その裏には――
15年以上、英語から完全に離れていた時間 がある。

30代までは、ワーホリ、カフェでの仕事、外国人シェアハウス、イスラエルのキブツ…。
世界の中で生きていた“あの頃の私”が確かにいたのに、
40代は一転して、派遣の仕事・体調不良・メンタルの不調で精一杯。

気づけば、英語はほとんど忘れてしまっていた。

「もう無理かもしれない」
「若い頃の私とは違うし…」

そう自分にフタをしていた時期もあった。

でも――
胸のどこかで“もう一度世界とつながりたい”という想いだけは、消えていなかった。

そして50代のある日、私はまた英語を開く。
それは、若い頃の続きではなく、
新しい人生をつくるための再スタート だった。

 

  1. 社会人になってから、ワーキングホリデーを決意するまで
    1. 人生の分岐点で、年上の先輩にインタビューした
    2. “今決断しないと一生行かない”という直感
  2. ゴールドコーストでの生活
    1. 現地でやった仕事1:日本の旅行会社
    2. 英語が話せない私と、ネイティブのお客さんとの出来事
  3. 現地でやった仕事2:地元のおしゃれカフェ
    1. カフェで使っていたフレーズ
    2. メニューの説明が一番困った
  4. 現地でやった仕事2:地元のおしゃれカフェ
    1. カフェで使っていたフレーズ
    2. メニューの説明が一番困った
  5. 現地でやった仕事3:日本の居酒屋
    1. 有名アーティストが来店した日
    2. 英語というより“青春の思い出”に近かった
  6. 外国人のいるシェアハウスでの生活
    1. 英語はほぼ使わなかったけど、人生が広がった場所
    2. 六本木のバー“はしご事件”
    3. 壁が薄すぎる問題と、謎の“Bless you”
    4. 価値観が変わるほどの出会い
  7. イスラエルのキブツでのボランティア活動
    1. 「行けるのは32歳まで」その言葉が私を動かした
    2. キブツ事務所への“直接申し込み”という無謀な挑戦
    3. イスラエル到着。バックパッカーで出会った“運命の仲間”
    4. キブツ事務所での手続きと、行き先の決定
    5. キブツでの日々は、人生で最も濃い時間だった
    6. キブツで学んだ4つのこと
  8. 40代で英語から完全に離れた15年間
    1. 派遣での生活、仕事の不安定さ
    2. 体調を崩し、心が折れていく40代前半
    3. 気づいたら、英語から15年以上離れていた
    4. 40代の私は“人生を守ることで精一杯”だった
  9. 50代で、英語にもう一度火がついた日
    1. “孤独”が私の背中を押した
    2. ネイティブキャンプとの出会い
    3. 50代で再び英語を始めた理由
    4. 英語が、未来への道を開いてくれた
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社会人になってから、ワーキングホリデーを決意するまで

社会人として普通に働いていたある日、年下の同僚と話していたら
「11月の連休に旅行行きましょう!」という話になった。

旅行先はオーストラリア。
連休+有給休暇を組み合わせて行くことに決まっていた。

しかし、その後しばらくして同僚が突然言い出した。

「私、11月のオーストラリアなんだけど、旅行じゃなくて会社辞めて、しばらく行くことにしました!」

“しばらく”ってどういうこと?と聞くと、

ワーキングホリデービザ というものがあって、友達がすでに現地にいるらしい。

「旅行で行く1週間は先輩(=私)と一緒に行きます!そのあと私は残ります!」

こんな会話が繰り広げられた。

今でこそワーホリは一般的だけど、
1980年代後半の当時、私はその存在をまったく知らなかった。
周りの人も誰も知らなかった。

「何それ?どうすれば取れるの?いくらかかるの?」

調べてみると、当時は年齢制限が 25歳まで
23歳だった私は、

「今しか行けない?どうする?行く?行かない?」

いろいろ考えた。

人生の分岐点で、年上の先輩にインタビューした

会社に20代後半の先輩がいたので、

「今このまま会社にいたらどうなるのか?」
「辞めてワーホリに行くのと、どっちがいいのか?」

そんなことを真剣に相談した。

今なら「そんなの自分で決めろ」って思うかもしれないけど…
当時の私は人生で初めての大きな決断。怖かった。

でも考えに考えて、結局私はこう思った。

「今しか行けないなら、今行こう!」

景気が良い時代だったし、24歳で帰国してもどうにかなるだろうと、当時の私は本気で思っていた。

“今決断しないと一生行かない”という直感

同僚の友達がすでにゴールドコーストにいると聞き、
「今行ったら心強いかも」と一瞬で思ってしまった。

そして何より…

「今決めないと、1年後も決められなくて、きっと行けない」

そんな直感がずっと消えなかった。

そうして迷っているうちに申請料は値上がり。
数千円だったものが、私が申請したときには 1万円 に上がっていた。

(今は約5万円もするらしい。あの時行っておいて本当に良かった…)

こうして私は、ほとんど英語が話せないまま、
ワーキングホリデーでオーストラリアへ飛び立つ決意をした。

 

ゴールドコーストでの生活

オーストラリアのゴールドコーストに行くことにした。
最初は後輩の友人のお宅にお世話になり、その後、その友人が手伝ってくれて、家も見つけることができた。


その友達は高校生のときにアメリカ留学していたらしく、すでにワーホリに来る前から英語がペラペラ。
その英語力で現地の不動産屋に出向き、部屋を借りる手続きをしてくれた。
今考えてみると、よく貸してくれたなあ…と思う。

私は本当は、足りない英語力を補うために英語学校に3ヶ月ぐらい行きたかったが、お金に余裕がなかったので、すぐに仕事を探すことにした。

現地でやった仕事1:日本の旅行会社

英語をほぼ喋れなかった私は、現地の会社で働くのは無理だと思い、日本人相手のところを探した。

最初の仕事は、日本人相手の旅行会社だった。
日本人相手の仕事だが、予約や手配は現地の会社なので、英語を話せる日本人を探していた。

私が行った時期は向こうのサマータイム、クリスマスに向けて忙しくなる時期で、猫の手も借りたいほど人がいなかったらしい。

当時ゴールドコーストに来ていた日本人は20歳前後が多く、社会人経験がない人がほとんどだった。

私は英語こそ話せなかったが、20歳で短大を卒業して3年ほど社会人経験があった。

なかなか英語を話せて社会人経験もある応募者はいなかったので、
「英語を勉強する」という約束のもと、仕事を得ることができた。

お客さんは日本人が多かったが、取引先は現地の会社なので、聞き取りにとても困ったが、徐々に慣れていった。

バスの予約もやっていたので、たまに現地の人が予約に来ることもあった。

英語が話せない私と、ネイティブのお客さんとの出来事

お客さんの代わりにバス会社へ予約し、チケットを渡す仕事をしていたが、外人のお客さんが来ると大変だった。

お客さん(英語) → 私(英語話せない) → バス会社(英語)

この三角関係のコミュニケーションが地獄だった。

しどろもどろ英語で現地のバス会社に連絡していると、ついにお客さんが痺れを切らして言った。

「その電話、僕に代わってくれない?」

恐る恐る電話を渡すと、お客さんは軽快にネイティブ同士で会話を進めていった。そりゃそうだ。

会話が終わると、お客さんが笑顔でジェスチャーを交えて私に説明してくれた。

「僕がここで払うから、君はそのチケットを書いて渡してくれればいいよ。」

“pay”“money”“ticket”という単語が聞き取れたので、それだけは分かった。

情けなかったけれど、とても優しいお客さんで救われた。

そんな経験をしながらも、英語はなかなか上達しなかった。

当時のワーキングホリデーは、同じ雇い主のもとで3ヶ月以上働けなかったため、12月〜3月で仕事を辞め、私はゴールドコーストを離れ、約1ヶ月旅に出た。

その後、オーストラリア国内を旅して、4月ごろシドニーにたどり着く。

現地でやった仕事2:地元のおしゃれカフェ

シドニーに着いた頃、せっかく貯めたお金も、
1ヶ月のオーストラリア国内旅行と財布の盗難によってほぼゼロになっていた。

なんとか安めの住む場所を決め、すぐに仕事探しを始めた。

なかなか英語が上達しない私は、ここで思い切って挑戦することにした。

「日本企業ではなく、現地の企業で働きたい!」
そう思って、日本人がいない職場を探したのだ。

今の私には絶対できないけれど、当時の私は当たって砕けろ精神の塊。
地元のきれいな建物に入っていた、おしゃれなカフェで働きたいと思った。

そのカフェは日本人向けのガイドブックに載っていて、
ごくたまに日本人のお客さんも来るが、ほとんどが現地の人。

私は思い切って電話をかけ、働きたいと伝えた。
すると「会ってみよう」という返事をもらい、その時間に向かった。

カフェのマネージャーはオーストラリアンチャイニーズの男性。
英語は足りていないけれど、

「周りより時給を1ドル低くするなら、数日試しに働いてみていいよ。」

と言ってくれた。

もしあまりにも仕事ができなかったらクビになるかもしれないけれど、
「せいぜい頑張って!」と背中を押してくれた。

たまに日本人観光客が来るので、そのときは役に立つだろうという理由もあった。

私は数日間トライアルで必死に働き、その後、無事に採用してもらえた。

私は普通に働いているつもりだったが、
現地スタッフの動作がゆっくりだったり、隙を見てサボったりするので、
なぜか「働き者」に見えていたらしい。(笑)

それに、トライアル期間に、英語がまったく話せない日本人観光客が来たとき、
他のスタッフが対応できず、

「あなた日本人でしょう?オーダー取りに行って!」

と頼まれることもあった。

おかげでマネージャーにも感謝され、私は正式に採用になった。

カフェで使っていたフレーズ

Are you ready to order?(注文の準備できましたか?)

他のスタッフは、
“What can I get you?”“What would you like?”
をよく使っていた。

お客さんの料理提供が遅くなったときには、

I’m sorry to have kept you waiting.
(お待たせしてすみません)

なども使っていた。

紅茶一杯(a cup of tea)やカプチーノ(cappuccino)を
早口で言われると聞き取れなくて、何度も聞き返してしまった。

 

メニューの説明が一番困った

このカフェは軽食だけではなく、きちんとした料理も提供していた。

お客さんから
「この料理って何?」
と聞かれるのが一番困った。

私はキッチンへ行き、シェフに英語で説明してもらい、
そのまま耳コピしてお客さんに伝えていた。

意味はよく分からなくても、ネイティブのお客さんにはちゃんと伝わった。

それでも伝わらないときは、キッチンの人にメモを書いてもらい、
そのままお客さんに見せていた。

20年前の話だが、今の私の英語力は当時よりは上がっているのに、
現地のカフェで働ける気は全くしない。

若かったあの頃の私は、本当にチャレンジ精神の塊だった。
あの頃の私、どこ行った?

募集もしていないのに、対して英語も話せないのに、
自分から電話して「雇ってください」と言った昔の私。

今思うと、めちゃくちゃ度胸あった。

過去の私に言いたい。

「その度胸、少し今の私にも分けてくれ!!」

 

現地でやった仕事2:地元のおしゃれカフェ

シドニーに着いた頃、せっかく貯めたお金も、
1ヶ月のオーストラリア国内旅行と財布の盗難によってほぼゼロになっていた。

なんとか安めの住む場所を決め、すぐに仕事探しを始めた。

なかなか英語が上達しない私は、ここで思い切って挑戦することにした。

「日本企業ではなく、現地の企業で働きたい!」
そう思って、日本人がいない職場を探したのだ。

今の私には絶対できないけれど、当時の私は当たって砕けろ精神の塊。
地元のきれいな建物に入っていた、おしゃれなカフェで働きたいと思った。

そのカフェは日本人向けのガイドブックに載っていて、
ごくたまに日本人のお客さんも来るが、ほとんどが現地の人。

私は思い切って電話をかけ、働きたいと伝えた。
すると「会ってみよう」という返事をもらい、その時間に向かった。

カフェのマネージャーはオーストラリアンチャイニーズの男性。
英語は足りていないけれど、

「周りより時給を1ドル低くするなら、数日試しに働いてみていいよ。」

と言ってくれた。

もしあまりにも仕事ができなかったらクビになるかもしれないけれど、
「せいぜい頑張って!」と背中を押してくれた。

たまに日本人観光客が来るので、そのときは役に立つだろうという理由もあった。

私は数日間トライアルで必死に働き、その後、無事に採用してもらえた。

私は普通に働いているつもりだったが、
現地スタッフの動作がゆっくりだったり、隙を見てサボったりするので、
なぜか「働き者」に見えていたらしい。(笑)

それに、トライアル期間に、英語がまったく話せない日本人観光客が来たとき、
他のスタッフが対応できず、

「あなた日本人でしょう?オーダー取りに行って!」

と頼まれることもあった。

おかげでマネージャーにも感謝され、私は正式に採用になった。

カフェで使っていたフレーズ

Are you ready to order?(注文の準備できましたか?)

他のスタッフは、
“What can I get you?”“What would you like?”
をよく使っていた。

お客さんの料理提供が遅くなったときには、

I’m sorry to have kept you waiting.
(お待たせしてすみません)

なども使っていた。

紅茶一杯(a cup of tea)やカプチーノ(cappuccino)を
早口で言われると聞き取れなくて、何度も聞き返してしまった。

メニューの説明が一番困った

このカフェは軽食だけではなく、きちんとした料理も提供していた。

お客さんから
「この料理って何?」
と聞かれるのが一番困った。

私はキッチンへ行き、シェフに英語で説明してもらい、
そのまま耳コピしてお客さんに伝えていた。

意味はよく分からなくても、ネイティブのお客さんにはちゃんと伝わった。

それでも伝わらないときは、キッチンの人にメモを書いてもらい、
そのままお客さんに見せていた。

20年前の話だが、今の私の英語力は当時よりは上がっているのに、
現地のカフェで働ける気は全くしない。

若かったあの頃の私は、本当にチャレンジ精神の塊だった。
あの頃の私、どこ行った?

募集もしていないのに、対して英語も話せないのに、
自分から電話して「雇ってください」と言った昔の私。

今思うと、めちゃくちゃ度胸あった。

過去の私に言いたい。

「その度胸、少し今の私にも分けてくれ!!」

現地でやった仕事3:日本の居酒屋

最初は、よく分からないプライドがあって、

「日本人だらけの職場では働きたくない!」

なんて思っていた。

でも、ワーホリも残り少なくなってくると、そんなこだわりもどうでもよくなり、
美味しそうな日本のレストラン(というか居酒屋)で働くことにした。

最後は結局、食欲が勝った…(笑)

仕事前には毎日“まかない”が食べられて、
美味しいものが食べられる幸せを噛みしめていた。

有名アーティストが来店した日

ある日、某有名アーティストが食べに来た。

私が作った揚げ出し豆腐をその人が注文してくれて、
キッチンで作った料理をホールスタッフでもない私が直接テーブルへ持って行った。

スタッフみんなの計らいで、

「せっかくだし、本人に運んでみなよ!」

と言われ、緊張しながら届けた。

人生の中でかなりドキドキした瞬間のひとつ。
今でも鮮明に覚えている。

英語というより“青春の思い出”に近かった

日本の居酒屋なので、英語を使う機会はほとんどなかった。

でも、仕事前のまかない、スタッフとのやりとり、有名人が来る事件、
そういう全部が、ワーホリ生活の良い思い出になった。

英語の成長にはつながっていないかもしれないけれど、
「海外で働いた」という経験値は大きかった。

今振り返ると、この頃の私は本当にエネルギッシュで、
いろんなことに飛び込んでいたと思う。

 

外国人のいるシェアハウスでの生活

ワーキングホリデーから帰国したあとも、
私は英語をペラペラ話せる状態ではなかった。

むしろ、帰国して普通の生活に戻り、
すっかり英語を使わなくなったことで、どんどん忘れてしまった。

「ワーホリ行ってた」と言っても、英語が話せるかといえば…
正直、全然だった。

そんなある日、会社の寮で生活していた私は、
個人的な事情で会社を辞めることになり、突然“住む場所”を失うことになった。

寮を出ないといけない。
でも…お金がない。

当時の東京は敷金礼金の文化が強く、
家賃7万円の部屋でも、最初に50万円くらい必要だった。

「そんなの無理!!」

そこで私は、初期費用がほとんどいらない物件を探し回った。

そして見つけたのが、

保証金3万円+家賃だけで入れるシェアハウス。

今でこそ“シェアハウス”はおしゃれなイメージだけど、
当時はまだ一般的ではなく、そこは昔の会社の寮を改装した古い建物だった。

だけど——

そこには20ヵ国以上、50人以上の外国人が暮らしていた。

英語はほぼ使わなかったけど、人生が広がった場所

英語力は挨拶レベルしかなかったけれど、
そのシェアハウスは“インターナショナルな事件”が毎日だった。

日本語がやたら上手いスリランカ人が
大鍋いっぱいの本格カレーを作り出し、

みんなで野菜を切って手伝っていたら、
その匂いに釣られた住人がぞろぞろ集まってきて、

いつの間にか20〜30人の大宴会に。

中庭で宴会をして、今思えば近所迷惑だったと思う(笑)

働いている人たちもバラバラで、
大手英会話スクールの先生、六本木のバー勤務、アーティスト志望…

とにかく濃い人たちの集まりだった。

六本木のバー“はしご事件”

ある日、誰かが言い出した。

「〇〇(住人)が働いてるバーにみんなで押しかけようよ!」

その一言で20人くらいが一斉に動き、終電で六本木へ。

住人が働く店を3軒ハシゴして、始発で帰るという…
若さ全開の思い出。

壁が薄すぎる問題と、謎の“Bless you”

そのシェアハウス、壁がとにかく薄かった。

部屋でくしゃみしたら、

「Bless you!!」

と隣のカナダ人から返事がくるほど(笑)

価値観が変わるほどの出会い

ここでの生活は、英語力が伸びたわけではない。
でも、

“自分の世界が広がった”

という意味では、ものすごく大きかった。

人生観が変わるような出会いも多く、
このシェアハウスの経験が、私を次の決断へ導く。

——そう、イスラエルの「キブツ」でのボランティアへ。

イスラエルのキブツでのボランティア活動

シェアハウスで多国籍な人たちと暮らしたことで、
私は“もっと知らない世界を見てみたい”と思うようになった。

そんなとき、知り合いがイスラエルの「キブツ」に行った話をしてくれた。

キブツとは、イスラエルにある共同体で、
敷地の中に住居・食堂・診療所・保育園・工場などがあり、
そこだけで暮らせる“小さな村”のようなもの。

ボランティアとして数ヶ月滞在する外国人も多く、
ヨーロッパからの若者が特に多いと聞いた。

「行けるのは32歳まで」その言葉が私を動かした

当時の年齢制限は32歳

話を聞いたとき私はすでに30歳近く、
迷っている時間はあまりなかった。

ワーホリのときは25歳までだったから、23歳で飛び込んだ。
今回も「今行かないと一生行けない」そんな感覚がよみがえった。

「行こう。今だ。」

気づけば私は、イスラエル行きの航空券を買っていた。

キブツ事務所への“直接申し込み”という無謀な挑戦

キブツには「日本からの団体ツアー」と「個人申込み」があり、
団体で行くとどうしても日本人が多くなる。

せっかくなら、一人で飛び込みたい!

そう思った私は、キブツボランティア事務所の海外サイトを探し出し、
カタコト英語で申し込みのメールを送った。

返事はすぐに来て、

「イスラエルに来たら事務所に来て手続きしてね」

とのこと。

航空券を手に、私はイスラエルへ向かった。

イスラエル到着。バックパッカーで出会った“運命の仲間”

到着後、予約していたバックパッカー宿へ送迎で向かい、
ドミトリーに入ると、同室にオランダ人の女の子がいた。

話してみると、なんと彼女も翌日キブツ事務所へ行くらしい。

お互いカタコト英語だったけれど、

「一緒に行こう!」

と即決。

当時はスマホの地図アプリもない時代。
慣れない街を一人で探すのは無謀だったから、
彼女の英語力は本当に心強かった。

キブツ事務所での手続きと、行き先の決定

翌日、なんとか事務所に到着し、登録料を支払って手続きを開始。

キブツはイスラエル国内に大小さまざまな数があり、
南は人気すぎて空きがほぼないと言われた。

そこで担当者が勧めてくれたのは、
イスラエル北部のキブツ。

オランダの女の子と顔を見合わせ、
「同じ場所に行かない?」という流れになり、

2人で同じキブツへ行くことが決定した。

キブツでの日々は、人生で最も濃い時間だった

ここから始まった数ヶ月の生活は、私の人生を大きく変えた。

ヨーロッパの若者たちは自由で、枠にとらわれない。
価値観が違っても尊重し合い、
「30歳?若いじゃん!」と本気で言ってくれる。

私は、
自分の世界がどれだけ狭かったのか痛感した。

毎日が新しい価値観との衝突で、
毎日が初めての体験で、
毎日が“生きてる”と実感できた。

あの頃の私は、30歳なのに10歳くらい若返ったような感覚だった。

—人生にこんな時間があるなんて、ワーホリの頃には想像もしなかった。

キブツで学んだ4つのこと

  • 英語が完璧じゃなくても、世界は広がる
  • 勇気は“準備がなくても”出せる
  • 年齢で人生を区切る必要なんてない
  • 失敗しても、助けてくれる人は必ずいる

このキブツでの時間は、私の人生でもっとも濃い数ヶ月だった。

40代で英語から完全に離れた15年間

キブツでの濃い時間を終え、私は日本に帰国しました。

しかし、帰国後の私はまったく別の人生に飲み込まれていきました。

派遣での生活、仕事の不安定さ

20〜30代の頃は海外での経験もあり、
英語を使う仕事に進める可能性もあったはず。

けれど現実は、派遣を転々とする日々でした。

契約期間は短く、更新されないことも多く、
「次の仕事が見つかるかどうか」で常に不安がつきまといました。

英語どころではなく、
“生活を維持すること”が最優先の毎日。

体調を崩し、心が折れていく40代前半

さらに追い打ちをかけるように、
私はいくつかの病気に悩まされるようになりました。

仕事のストレス、将来の不安、孤独。

そしてついに、心が追いつかなくなり、
うつ病を経験しました。

布団から起き上がれない日が続き、
外に出る気力もなく、

「私は何もできない人間なのかもしれない」

そんな思いが頭をぐるぐる回る毎日。

あのキブツで世界が広がったはずなのに、
気づけば私は部屋の中で縮こまっていたのです。

気づいたら、英語から15年以上離れていた

英語を話せなくなったことに気づいたのは、
ある日ふと昔の写真を見返したときでした。

20代のワーホリ、30代のキブツ、
世界中の友達と笑っていた日々。

その写真の中の私は、
今の自分とはまるで別人。

「あれ?私って、英語できたんだっけ?」

そう感じるほど、すべてを忘れていました。

気づけば15年以上、英語にはまったく触れていなかったのです。

40代の私は“人生を守ることで精一杯”だった

誰にも見せなかったけれど、
この時期の私は本当にしんどかった。

英語に戻る余裕なんて、1ミリもなかった。

“海外で働きたい”“英語をもっと学びたい”
あの頃の自分が抱いていた夢なんて、

現実の前では全て消えた。

でも今振り返ると、
この40代のブランクはムダじゃなかったと思っている。

なぜなら、心が折れた経験があったからこそ、

50代の私は「もう一度、もう一度だけ英語をやりたい」
そう思えたからです。

人生のどん底に一度落ちたことで、
やっと“自分の人生を立て直すための英語”という意味が見えた。

キブツの仲間たちが言っていた言葉が、
40代の私を引っ張り上げてくれた。

「年齢で人生を区切らなくていい」

その言葉が、ずっと心のどこかに残っていた。

 

50代で、英語にもう一度火がついた日

40代、私は英語から離れ、人生そのものに押しつぶされそうになっていた。

でも50代に入ったある日、
人生の流れを変える“ひとつの出来事”が起きた。

—コロナ。

世界が止まったような日々。
仕事も制限され、人にも会えない。
家にいる時間が急に増えて、

「私、このまま歳を重ねていくの?」
そんな不安と向き合わざるを得なくなった。

人生はあと何十年も続くはずなのに、
未来の景色がまったく見えなかった。

“孤独”が私の背中を押した

在宅勤務の毎日は、静かすぎた。

誰とも話さず終わる日もある。
笑うことも、驚くことも、心が動く瞬間さえも減っていく。

そのとき、ふと思い出したのが
キブツで出会った仲間たちの言葉。

「世界には、話したい人がたくさんいるんだよ。」

そうだ。
私には、かつて“世界”があった。

英語が話せれば、孤独は少し薄れるかもしれない。
また世界とつながれるかもしれない。

そんな想いがじわじわと湧き上がってきた。

ネイティブキャンプとの出会い

ある夜、眠れないままスマホを触っていたら、
偶然“ネイティブキャンプ”の広告が目にとまった。

「24時間・レッスン受け放題」
「予約不要」

—あ、これなら私でもできるかもしれない。

そう思った瞬間、指が勝手に
“無料体験を始める”を押していた。

最初のレッスンは、信じられないくらい緊張した。
声が震え、単語が出てこない。

でも先生が笑いながら言った。

“It’s okay. Let’s enjoy.”(大丈夫。楽しもうよ。)

その一言で、胸の奥がじんわり温かくなった。

50代で再び英語を始めた理由

若い頃みたいに海外で働きたいわけじゃない。

でも——

もう一度、自分を取り戻したかった。

40代で完全に折れてしまった自信。
未来が見えなくなったあの感覚。

それを塗り替えてくれたのが、
英語だった。

レッスンで先生と笑い合うたび、
少しずつ心が軽くなる。

できなかった文法ができたとき、
久しぶりに“成長”を感じた。

「私、まだ終わってない。」

そう思えたとき、涙が出るほど嬉しかった。

英語が、未来への道を開いてくれた

私は50代にしてやっと気付いた。

英語は、ただのスキルじゃない。

未来のドアを開けてくれる“鍵”なんだ。

  • 孤独をやわらげてくれる
  • 世界中の人とつながれる
  • 脳も心も若返る
  • 人生に“目標”が生まれる
  • 老後の不安を少しでも減らせる

あのキブツで出会った仲間に言われた言葉が
ようやく胸に落ちた。

「人生は、何歳からでもまた始められる。」

50代で英語を再開した私は今、
あの頃の自分よりずっと強く、前を向いている。

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① 英会話再開のモチベ記事

👉 https://haru001.com/neitivacamp/

② 忙しくても続けられる方法

👉 https://haru001.com/onlinnelessonkeepongoing/

③ 英語に触れ始めた初心者向けの記事

👉 https://haru001.com/naitivecamp1000times/

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