私が色々英語に触れてたきた記録を綴る。ワーホリ、外人シェアハウス、海外ボランティアなどの話 - 50代から始めるオンライン英会話

私が色々英語に触れてたきた記録を綴る。ワーホリ、外人シェアハウス、海外ボランティアなどの話

50代から始めるオンライン英会話ってタイトルからもしかしたら
私が、英語を勉強をし始めるのが50代からと思ったかもしれない。
そうだとしたらごめんなさい。

 

オンラインの英会話を始めたのが、50代ってだけで、
色々英語に関わっては、英語の勉強を一切やめる、また始める
を繰り返し、今でもまだ中途半端な英語力でございます。

これから色々語りますが、長いです。
時間のある時にお読みください。

英語との出会いの歴史。

ありきたりだけど、義務教育から始まります。

 

 

中学ー短大 英語への気持ちは芽生えなかった時期

 

私の英語の出会いは普通に義務教育の中学1年生で
普通に中学校で習い始めて、全く全然英語好きじゃなくて
中1から、高校、短大2年間で合計8年間は英語の
授業を受けてきたが、成績は良くなかった。

高校2年生のとき、友達が英検3級を受けると言っていたので
一緒に行こうということになり、私も受けた
それで、英検3級は受かった。
それ以来、英検は挑戦していない。

 

私の大学生時代はバブル絶頂期に
大学の勉強もそこそこに
バイトしまくっていた私はお金を貯めて大学の友達と
ハワイに行った。

 

 

その時も、英語もろくにできないのに
旅行の英会話の本を片手に、
レンタカーを予約して、いざその受け取りの
電話をしなきゃいけないんだけど
何言ってるか、わからないんですよ。

 

 

こっちは単語を羅列して言いたいことは
伝えたのだが、向こうが何言ってるか
分からなくて、何度 Pardon? Pardon?
って言ったことか・・・・

 

 

レンタカーを借りることさえも4人で
しどろもどろだった。

 

 

なんとか4人で予約をし、ハワイで車でドライブ
できた。

 

その時はあまり、英語が話せなくて、大変だったとか
あ、英語話せたら楽しいだろうなっとか
普通思うはずなのに、何も考えなかった。

 

 

日本語も通じるところも多かったし
友達4人と行ったので、なんとかなった
のもある。

 

 

でもその中の誰かが英語を話せたか
というとそうではない。

 

 

普通、海外旅行に言ったらもっと英語力が高まって
英語を本格的に始めればよかったんだけど。。。
残念ながら、その時は全然火がついてなかった。

 

 

社会人になってから、ワーキングホリディーを決意するまで

 

時を経て、私は普通の会社員として働いていた。
とある日、年下の同僚を話をしていたら、11月の連休に旅行行こうという話になり、

 

どこがいいって話になって、連休プラス有給休暇を使って
オーストラリアに行くことになっていた。

 

その後、しばらくしてから。。。

 

後輩:私、11月のオーストラリアなんだけど、旅行じゃなくて会社辞めて、しばらく行くことにした!

 

しばらくってどうゆうこと?

 

ワーキングホリディーってビザがあって、友達が行ってるんだよね。

だから、私もそのビザとって行こうと思って!

でも、旅行するはずだった1週間は先輩と一緒に旅行するんで!

大丈夫です。そのあと私残ります!!

 

こんな会話が繰り広げられ、2021年の現在は、あーワーホリ行くの?みたいな
会話が人によっては通じるのかもしれないが、1980年代後半の当時は自分も知らないし
周りも誰もワーキングホリディービザをいう存在を全く知らなかった。

 

 

何それ?どうすれば取れる?いくらかかる?

 

 

今は、30歳までいけるらしいのだが、当時はは25歳までで、23歳だった私は、
今しか行けないのか? え、どうする?行く?行かない。
会社辞めてどうする?? このまま会社にいたらどうなる?
いろいろ考えた。

 

 

 

そこで、会社に20代後半まで働いてる先輩にちょっとインタビューした
りして、自分がこのまま会社で働くどうなるのかを辞めてオーストラリアに
ワーホリに行くのとどっちがいいのか??

 

 

 

いろいろ考えたが、結局今しかいけないのなら、
今いこう!という考えに辿り着いだ。

 

 

 

当時は日本も景気が良かったし、1年行って帰ってきたところで
まだ24歳だし、仕事はあんとかなるだろうと安易に考えていた。

 

 

その旅行の時の11月までに辞めていかなくても
1年ぐらい考えてから行く選択肢もあった。

 

 

でも私は、会社の後輩がいうには、彼女の友達がすでに
ワーキングホリディービザでゴールドコーストにいるらしい。
今一緒に行ったら、心強いかもっ思ってしまった。

 

 

それに今決断しなかったら、きっと1年後も決断できなくて
年齢制限をひっかかかってきっと行けなくなるだろう。

 

 

もたもたしている間に、申請料が上がってしまったのです。
ちょっと前まで、3000円代だったのに、私が申請した時には
1万円に上がってて。。。

 

いまじゃ、ワーキングホリディービザ申請代も今は485豪ドル
って!!めっちゃ高いんですね!ほぼ5万円もするじゃない。。。

 

 

あの時、決めてよかったのと思います。

 

そんなこんなで、私は対して英語もしゃべれないまま
オーストラリアに行くことになるのです。

 

ワーキングホリディーの生活

 

オーストラリアのゴールドコーストに行くこと
にした。最初は後輩の友人のお宅にお世話になり、
その後、後輩の友人が手伝ってくれて家も
見つけることができた。

 

後輩の友達は、高校生の時にアメリカ留学してたらしく
すでにワーホリ来る前から英語がペラペラだったらしい。
その英語力で、現地の不動屋さんに出向き、
借りれることになった。
今考えてみると、よく貸してくれたなあ。。

私は、全然足りない英語力を補うために英語の学校にでも
3ヶ月ぐらい行きたかったが、お金に余裕が
なかったから、すぐに仕事を探すことにした。

 

 

現地でやった仕事1 日本の旅行会社

 

英語をほぼ喋れなかったから、現地の会社は
無理だったので日本人相手のところを探した。

 

最初の仕事は、日本人相手の旅行会社だった。
日本人相手の仕事だが、代わりに予約したりするので
英語を話せる日本人を探していたが、
私が行った時期は向こうのサマータイム、クリスマスに向けて
どんどん忙しくなる時期だった。
猫の手も借りたい程
人がいなかったそうで。。。

当時のゴールドコーストに来ていた日本人は、
20歳くらいの人が多くて、社会人経験が
ない人が多かった。

 

 

私は、英語こそ話せないが、20歳で短大を卒業して
3年ぐらい社会人をした経験があった。

 

 

なかなか、英語も話せて社会人の経験がある
応募者はいなかったので、私は社会人の経験があるっていうだけで
英語を勉強するという約束のもと仕事を得ることができた。

 

お客さんは日本人が多かったけど、取引先は現地の会社だし
聞き取りにとても困ったが、ちょっとずつ慣れていった。

 

 

バスの予約もやっていたので、たまに現地の人が
予約に来ることもあった。

 

 

お客さんの代わりに、バス会社に予約をしてバスチケット
を渡すのだが、ごくたまに、
外人のお客さんが来ると気がある。

 

 

そうなると大変、!

 

 

お客さん(英語)仲介の私(英語を話せない)
現地のバス会社の人のやりとりが地獄・

つたない、英語で現地のバス会社に連絡を取るのだが
ほんとに地獄。

 

 

しどろもどろ英語の会話を現地のバス会社の人と繰り返してると。。。。
痺れを切らした、お客さん(英語ネイティブ)
その電話僕に代わってくれないか??と言い出す。

 

 

もう全然伝わらなくてイライラしたんだろう。。。

 

 

 

恐る恐る電話を渡すと、軽快に話している。
そりゃそうだ、ネイティブ同士だから、
話も弾むわけだ。

 

 

どこから乗りたいとか何時のバスがあるとか
何人とかいくらとか?

 

 

基本的な会話だと思うけど、なんかそれ以外の
ことも、お客さんは現地のバス会社の人に
聞いているように聴こてた。

 

 

英語を理解していないから定かではないが。。。

 

 

結局、現地のバス会社と会話が終わったお客さんから
電話を渡されて、

お客さんが、笑顔で、私にゼスチャー含めて、私に
説明してくれた、

 

”僕がここで、君にお金を払うから、
君は、そのチケット(当時は手書き)を発行して
僕にくれればいいいから。”

 

 

みたいなことは言っていた。(これぐらいはわかった)
pay とかmoneyとか、ticketって単語が出てくるから
これぐらいは、わかった。

 

 

なんとも情けないエピソードだけど
とてもいいお客さんだったから助かった。

 

 

こんなこともありながらも、なかなか英語は
上達しなかった。

 

 

当時のワーキングホリディーは、同じ雇い主の
ところで、3ヶ月以上働けなかったので、12月から3月
まで働いた後は、ゴールドコーストをさり、
1ヶ月ぐらい旅に出た。

 

 

1ヶ月後ぐらい、オーストラリア国内を旅した後に
4月ごろシドニーにたどり着く。

 

現地でやった仕事2 地元のおしゃれカフェ

 

シドニーにつき、せっかく溜めたお金も1ヶ月の
オーストラリア国内旅行と、財布の盗難により
すっかりお金がなくて、なんとか、安めの住むところ
を決めたところで、すぐに仕事探しをすることにした。

 

 

なかなか、英語の上達しない私は、
ここでチャレンジした。
なんとか、日本の企業ではなく、現地の
企業で働きたい私は、日本人がいない
職場を探すことにした。

 

今の私の精神力では全然できないけど
若い私は、当たって砕けろ精神が
備わってて、地元の綺麗な建物の中に
あった綺麗なCafeで働きたかった。

 

Cafeは、日本人向けのガイドブックに
載っていたので、ごくたまに日本人の
お客さんも来るが、ほとんどが現地の人だ。

 

私は、とりあえず電話をかけて、働きたい旨を
伝えた。そしたら、会ってくれるというので
その時間にカフェに出向いた。

 

そのCafeのマネージャーは
オーストラリアンチャイニーズの人だった。
カフェで働くには、ちょっと英語が足りないけど
みんなよりも、時給を1ドル低くしてもいいなら
試しに数日働いてもいいよと言ってくれた。

そこであまりにもひどかったら、
首にするかもしれないけど、せいぜい頑張って!

毎日は来ないが、たまーに日本人観光客が
来るからその時には役に立つかもって
思ってくれたらしい。
それから、数日働いた。
その後、雇ってもらえることになった。

私は普通に働いたつもりだったが、
他の現地のスタッフが、ちょっと動作がゆっくり
だったり、隙を見てサボったりするので、私が働き者に
見えたらしい。 (笑)

それに、カフェのトライアル期間に
全く英語を話せない日本人がカフェに
お客で来たときに、他のスタッフが
ぜんぜん対応できなくて、
あなた日本人でしょう、あなたオーダー取りに行って
ってお願いされたりしていました。

 

 

たまにしかこない日本人の観光客を
相手したら、とてもマネジャーと
マネージャーに感謝されて無事に採用になった。

 

 

□Cafeで、使ってたフレーズ!

私が使ってたのは

Are you ready to order?注文の準備できましたか?

 

他のオーストラリアのスタッフは Hi!ってお客さんに言った後

What can I get you? とか what would you like?

とか使ってました。

 

それから、これはお客さんが食事を待ってる時間が
長かったときに、
”I’m sorry to have kept you waiting.
お待たせしてすみません。”
それから、お客さんからのオーダーで
a cap of tea (紅茶一杯)と cappuccino (カプチーノ)
を早口で言われるとなかなか聞き取れなくて
何回も聞き直したりしました。

 

このカフェ、軽食だけでなく結構ちゃんとした
シェフもいて料理も出していたから、
この料理は何?って聞かれるのが、一番困った。

 

外人の人からメニューの内容を聞かれた時は、
キッチンに聞きに行って、言われた英語を
そのまま覚えて、それ耳アワー的にそのまま
伝えると、私は意味わかんなくても、ネイティブの
お客さんがわかってくれる。

それが伝わらない時は、キッチンの人に
メモを書いてもらって、それをそのままお客さんに
見せていた。

 

20年前の話だが、20年前の私の英語力より
今の方が話せるが、現地のカフェで働く勇気は
全くない。

 

 

当時の若者だった私はチャレンジ精神の塊だった。
あの頃の私どこ行った???

 

考えてみたら、募集もしてないところ
に対した英語も話せないのに
電話して雇ってくださいって連絡しようと
思った私、結構図々しいし、今考えてみると
度胸があった。

 

過去の私に問いたい、なんでそんなに
度胸があったんだ??
少し今の私にも分けてくれ!!

 

 

現地でやった仕事3   日本の居酒屋

 

最初は、なんかよくわからないプライドなのか
日本人だらけのところで働かないぞ!!
ってなんて思ってたけど、
ワーホリも最後の方になるど、どうでも良くなって
ちょっと美味しそうな、日本のレストランというか
居酒屋でバイトすることにした。
最後は、食欲かよ!!


仕事前に、まず賄いを食べられるから
毎日美味しいものを食べられて幸せだった。

 

 

某有名アーティストが食べにきて、その人に
自分の作った揚げ出し豆腐を食べてもらえて

 

 

お店のスタッフの計らいで、その揚げ出し豆腐を
その有名アーティストにホールスタッフではないのに
直接もっていけたことが最大の思い出です。

 

 

 

外国人のいるシェアハウス

 

ワーキングホリディーから帰ってきた後も
あまり英語をペラペラ話せる状態ではなかった
私は、帰ってきたらすっかり英語を忘れてしまい
普通に生活を送っていた。

 

ワーキングホリディ言ってたからって
対して喋れるようにはなってなかった。
数年が過ぎた頃、会社の寮で生活して私は、個人的な理由でその会社を
退職をしたら、住むとこがなくなってしまった。

そして、そして、私は会社の寮を出なければいけないのだが
なんせ、お金がない!今では考えられないが、当時の
東京の敷金と礼金とかいう謎のシステムがあって、
7万円ぐらいの家賃だったのしても、最初に50万ぐらい
ないとアパートが借りれない!!

そこで、私はなるべく初期投資が少なくて済むところ探したんですよ。
そしたら、補償金3万円+家賃で入れるところがありました。
そこは、今でいうシェアハウスですよ。

私は、そう。時代を先取りしていたんです。
(誤)・・・・・・・・いやお金がなかっただけ

今のシェアハウスを検索すると、綺麗なところばっかり
なんですけど、私が入っていたシェアハウスは昔の会社の
寮をだったところを使っていて、それがもう古い古い。

でもそこに、大量の外人さんが住んでるんですよ。
もう、20ヵ国以上いたかな??50人以上住んでたのかも。

日本人も数名いましたけど、外人さんの方が圧倒的に
多かったですね。

その時も、対して英語は挨拶程度で使ってなかったかな。
考えてみたらめっちゃいい環境だったんですけどね。

英語は対して使わなかったけど、めっちゃインターナショナルな
体験はいっぱいしました。

日本語も上手なスリランカ人がカレーを大量に作ってくれたりして、
それを私ら、野菜切ったりして手伝うんですけど、10人ぐらいで
食べてると、そこにみんな勝手に参加してきて、20−30人が中庭とかで
飲み会とか始まっちゃうんですよ。
今考えると、近所迷惑だったろうな。

いろんなところで、働いてるいて、大手有名英会話学校の
先生とか、六本木のバーで働いている人がいたり、
ほんとにそれはそれは、バラエティー豊かで。

20人ぐらいで、バーで働いているうちのシェアハウスの
住人のところに押しかけようっていう誰かが言い出して、
みんな終電で六本木に向かい、3件ぐらいシェアハウスの
住人のバーをはしごして始発で帰ってきたりしたのも、
20代のいい思い出です。

なんせ、ここでは壁が薄かったので、くしゃみ
しただけでも聞こえてくる。
いいのか悪いのか、人によるだろうけど
部屋で、クシャミした途端、隣のカナダ人にBless you!!
って言われたりしました。笑。

まあ、ほんとにいろんな人がいて
ここでの出会いがその後の私の行動を大きく変えました。

 

イスラエルのキブツでのボランティア活動!!

 

え、いきなりイスラエルってどうしたの?
って思うでしょうが、外人ハウス時代にいろんな
出会いがありまして、スペイン語習いはじめたり
メキシコ数ヶ月間、行ったりをしていましたが。。。
(いつかメキシコ話も書こうと思います)

 

そうそう、イスラエル行ったんですよ。
キブツっていうボランティアがありましてね。

 

キブツとは?
キブツは伝統的に農業に基づいていたイスラエルの共同体である。
イスラエルの各地で町や村と肩を並べながら独自の社会を築き、活動している。
キブツは社会主義とシオニズムを組み合わせたユートピア共同体として始まった。

 

いまいち定義を読んだだけでは、意味はわからないけど、私の勝手なイメージ的には
日本にある米軍基地的な感じ。米軍基地って例えても、軍とかではなくて
ある程度の広い敷地の中に、コミュニティーがあって、そこから出なくても
生活できる共同体である。

敷地の中には、診療所や保育園、食堂、ナイトクラブ(週1オープン)工場、
などがあり、流石に映画館や、ボーリングといった遊びはできない
イスラエルの国の中にたくさんあって、大きかったり小さかったりその間だったり。
そこに、外国人ボランディアがある一定期間行く。大概2ヶ月ぐらい。
外国人ボランティアは大概ヨーロッパからの若者だ!

そんなところに、私は何を思ったのか乗り込んでいった。

きっかけは、知り合いの人がキブツにいっていたから何だけど
ここでもまた年齢制限が。。。
ワーキングホリデーの時は当時の年齢制限が25歳だったから
23歳の時に決断した。

このキブツは32歳までだった。
キブツの話は28歳ぐらいの時から聞いていたが、なかなか行く勇気が
出なくて、だらたら決断を伸ばしていたが、結局30歳の冬
イスラエルに向かっていた。

キブツは日本から集団で行く場合と、勝手にイスラエルにある
キブツ事務所に申し込んでいく方法があった。

集団で行くと、日本人だらけになってしまうので、
どうにか直接申し込む方法はないかと探し、キブツボランティア
事務所のホームページを探しメールをした。

いつごろ行くかを伝えて、イスラエル国内にあるその事務所に
いってお金を払えば、受け付けてくれるそうだ。
お金はいくらだったか忘れたけど、100ドルとか150ドル
だった気がする。

航空チケットを買ってイスラエルに到着する。そこで一泊して
次の日には、ボランティア事務所に行く。
イスラエルに到着する前に、ホテルというかバックパッカー
を予約した。空港にはバックパッカーの迎えの車が来ていた。

数人が乗り込み、バックパッカーに着いた。
部屋はドミトリーなので相部屋だった。
4人部屋で他の二人は誰か忘れたが、
一人は、オランダ人の女の子だった。

そのオランダの女の子とカタコト英語で話していたら
その子も、ボランディア事務所に明日行くらしい。
それで、一緒に行こう!!っていう話になった。

 

今は、iphoneに入っている地図アプリさえあれば
なんとかなるが、当時はそんなものなかったから
行き方を調べて自力で行かなきゃ行けなかったから
英語ペラペラの彼女と一緒に行くのはありがたかった。

なんとか、ボランディア事務所に到着し、登録料の
お金を払い。
それから、どこのキブツに行くかを相談。
イスラエル小さい国だけど、北から南まで
いろんなキブツがあるらしく、人気があるのは南のキブツ
でも人気すぎて、なかなか空きが出ないらしい。

そこで勧められたのが、北の方いあるキブツだった。
オランダ人の女の子と一緒に行ったため、
二人は、同じキブツに行きたいの?と聞かれ??

お互い顔を見合わせて、キブツまで遠いので
そこまで一人で行かなきゃいけないことを
考えると、二人一緒に行った方が安心よね!
ってことで、同じところに行くことにしました。

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